Interview Vol.188
東京・多摩のまちと大学の里山で、
人と専門性と自然が出会う土壌を耕し続ける。
EVOLOVEプロジェクトでは、日本全国47都道府県にて「地元愛」を持ち、積極的に地域活性に力を注ぐ方々へのインタビューを行っています。これまでの活動内容から、この後どのように「地元愛」を進化させていくか。未来へ向けたチャレンジを、皆さんと一緒に考えていけたらと思っています。今回は、東京都国分寺市を拠点に、NPO法人マルイスの代表理事、明星大学デザイン学部教授、つくし文具店店主として、中央線沿線や多摩の街で、面白い活動が芽吹く土壌を耕し続ける萩原修さんに話を伺いました。
萩原修さん(つくし文具店にて)
20年の通勤生活の先に見つけた、
「暮らしと仕事をひとつにする」という選択。
現在の活動について教えてください。
萩原いくつかの顔があるんですが、根っこはひとつで、「自分たちが暮らす街を、自分たちで面白くする」ということです。NPO法人マルイスでは、約430万人が暮らす東京郊外の多摩地域を舞台に、メディアや場づくりを通して人と人が出会う機会をつくっています。国分寺市と協働している「こくぶんじカレッジ」には、これまで250人以上が参加してくれて、そこから40以上のプロジェクトが生まれました。ほかにも「アーバンデザインセンター国分寺」や、大人の部活のような「くらすまち研究所」を動かしています。
大学では明星大学デザイン学部の教授として、多摩をフィールドに学生と地域をつなぐ地域連携を担ってきました。そして、国分寺の実家を受け継いだ「つくし文具店」の店主でもあります。
つくし文具店の大宮出張時の様子
今の活動を始めたきっかけを教えてください。
萩原僕は国分寺の西側、国立駅の北側で育ちました。美大を出て大日本印刷に入り、リビングデザインセンターOZONEでも働いて、20年ほどサラリーマンとして都心に通っていたんです。自分が育った郊外の住宅地では、父親たちはみんな都心に仕事に行くのが当たり前で、街に仕事は少ない印象でした。
でもだんだん、暮らしと仕事を別々にしていることが苦しくなってきたんですね。42歳というのはすごく遅いんですが、独立して、デザインの仕事が少ない地元に戻ってきました。それがつくし文具店の始まりです。自分が住んでいる街で、自分の手で面白いことを始めてみたかったんです。
中央線沿線での活動について教えてください。
萩原2005年に国立で「国立本店」という場を立ち上げたことをきっかけに、仲間たちと「中央線デザインネットワーク」をつくりました。東京駅から高尾駅まで32駅ある中央線を一本の線として捉えて、沿線の街の魅力を掘り起こしていこうという活動です。その後も「西荻紙店」や「国分寺さんち」、「国立五天」「マルヒノ」と、沿線に小さな居場所を少しずつ増やしていきました。
駅の高架化にあわせたプロジェクトでは、フリーペーパーの編集や毎月のトークイベントを担当して、都心に通勤している20代、30代の方に「自分の住んでいる街って、こんなに面白いんだよ」と伝え続けました。
くにきたパークキャンプ(写真左)、ツクシハウスでのくにきた園芸部の活動(写真右)
一軒の文具店から始まった点が、
線になり、面になっていった。
明星大学での活動について教えてください。
萩原明星大学は「多摩に根ざした大学」を掲げていて、13年前にデザイン学部が立ち上がるとき、デザインを軸に地域と関わりながら、教育・研究・実践を担える人を探していたそうです。そこで、多摩で活動していた僕に声がかかりました。教員になりたくてなったわけではなく、多摩での活動の延長線上に大学があった、という感じですね。学部では、3年生120人全員が履修する必修授業で、行政の課題を解決する企画を学生が提案する地域連携を担当してきました。
SATOYAMAプロジェクト フィールドワークの様子
2022年からの4年間は、学部を越えて大学の緑地を活かす「明星SATOYAMAプロジェクト」に、地域との交流や見せ方の担当として関わりました。キャンパスは多摩丘陵の一角にあり、希少な動植物も暮らしています。バードウォッチングやきのこのワークショップなど、地域の方も参加できる活動を重ねるうちに、「SATOYAMA」という言葉をきっかけに、地域の方や行政、企業ともつながりが広がっていきました。外部の大学評価でも、大学の特色として取り上げていただいています。
SATOYAMAプロジェクト発表会の様子
活動を通じて変化はありましたか?
萩原いちばん大きいのは、人の変化ですね。都心に働きに出て、街では寝るだけだった人が、仕事帰りの夜や休日に、自分の街で何かを始めるようになった。こくぶんじカレッジの卒業生たちが「もとカレ」というネットワークを自分たちで立ち上げたときは、本当にうれしかったです。
リモートワークが広がって、家で仕事をする人が増えたことも大きな追い風でした。自分が住む街のことが気になりだした人たちが、どんどん集まってきてくれたんです。古い建物をリノベーションして使ったり、高架下に居場所ができたりして、街の中に歩いて巡れる場所も増えていきました。
行政との関係も変わってきました。日本のデザインは工業や商業の分野で育ってきたので、行政の中ではまだ「見た目を整えるもの」と思われがちです。でも本来デザインは、暮らしをよくするための考え方そのもの。アーバンデザインセンター国分寺のように、市民と行政、企業、大学などが一緒に街の未来を考える場ができてきたことは、大きな一歩だと感じています。
明星大学 多摩デザインプロジェクト 国分寺市で農業デザインの話を聞いている様子
萩原さんにとっての地域活性を教えてください。
萩原僕にとっての地域活性は、「まちを耕すこと」です。地域を活性化させようと意気込んでいるわけではなくて、耕した結果として、街が面白くなっていけばいいと思っています。
というのも、東京の郊外は長いあいだ、住んでいるけど働いていない街だったんです。昼間は都心に出かけて、街との関わりは寝ることと買い物くらい。それでは街の面白さは、なかなか生まれてきません。
だから僕は、自分の活動を「プロジェクトファーム」と呼んでいます。人が出会い、学び、何かを始められる土壌を耕しておく。耕しているうちにどこからか種が飛んできて、花が咲くかもしれないし、咲かないかもしれない。人数を増やすことが目的ではないんです。面白い人がひとりいれば、街は面白くなりますから。
面白くない街を面白くしていくことに、面白さを見い出せる人が現れる。その結果として地域が元気になっていく。それが僕の考える地域活性です。
明星大学 多摩デザインプロジェクト 柿ばたけのイベントでの現地ヒヤリング時の様子
母のひと言と、大学のSATOYAMA。
ふたつの出会いが、まちとデザインの見方を変えた。
萩原さんにとっての"EVOLUTION✕LOVE"を教えてください。
萩原若い頃の僕は、学園都市として計画的につくられた国立の街なみが大好きでした。まっすぐな大学通りや整った区画に、近代デザインの美しさを感じていたんです。
ところがあるとき、母に「国分寺の方が歴史があって面白いじゃない」と言われて、はっとしました。あらためて歩いてみると、国分寺には武蔵国分寺の跡があり、国立の南側にも谷保天満宮を中心とした古い村の風景がある。住宅地のすぐ横には、畑や雑木林が残っている。そこから、新しくつくることより、すでにある歴史や自然、都市農業と、これからの暮らしをどうつなぎ直すかを考えるようになりました。
もうひとつの転機が、大学のSATOYAMAプロジェクトです。それまでの僕が考えていたのは、人工物の生産と消費だけでした。ところが生態学には「分解」という考え方があって、菌や微生物が分解してくれるから地球が成り立っていると教わったんです。これからは、人間も含めた自然を中心にデザインを考えたい。国分寺で仲間と園芸部を始めたのも、その影響です。
コロナ禍では、大切にしてきた拠点をいくつも手放すことになりました。でも、点がなくなっても、人と人のつながりという面が残っていることに気づけた。自分たちの街を自分たちでデザインすることは、一生続けていこう。そう思えるようになりました。
10年後、20年後はどのようになっていたいですか?
萩原行政にまかせきりにするのではなく、市民一人ひとりが自分の暮らしと街を使いこなし、デザインし続けている。そんな多摩になっていたらいいですね。自分が使うものを、誰がどこでどうつくっているのかが見えて、文化と経済が自然に巡っているような暮らしです。
そのためにも、国分寺だけでなく、国立や小平、小金井、三鷹、府中、立川、日野、八王子、青梅などと、多摩の街同士がもっとゆるやかにつながっていくことが大事だと思っています。大学で出会った学生たちが、卒業したあとも自分の暮らす街で何かを始めてくれたら、こんなにうれしいことはありません。偶然の出会いが、誰かの人生を変える必然の出会いになる。そんな場を、これからも仲間と一緒につくり続けていきたいです。

萩原さん、ありがとうございました! 街でも大学でも、人と専門性と自然が出会う土壌を耕し続け、「住んでいるけど、働いていない街」だった東京郊外を面白い街へと変えていく萩原修さんを、今後も応援させていただきます。